第11話チョークの跡
地下は静かだった。
三人の息づかいのほか、何も聞こえなかった。
T999が階段を降りると、光の届くところだけ壁が見えた。
白い矢印があった。指ほどの幅の白い粉。脇に小さな文字。
水あり。右。
「誰が書いたんだろ」
T17が粉をこすった。指先が白くなった。
「復元者なら、水を先に書かないと思う。補給品を持って降りてくるから」
「では誰ですか」
「上の人たち。地表の」
矢印をたどった。数歩おきに一つあった。
初めは字がはっきりしていた。天井低い。頭に注意。三つ目の部屋から石。ここで休む、お母さんと。
進むにつれ、言葉は短くなった。左。行き止。
次は矢印だけ。
その次は、同じところをぐるぐる回る矢印。線が何重にもなって太くなるまで。
その次は、引っかいた跡。
T17は読むのをやめた。読めるものがなかった。
「……降りながら忘れたんだ。何をしに来たのか」
「では、私たちもですか」
あまりに平然とT999が聞いたので、T17は答えられなかった。
最初の部屋には石が七つあった。腰ほどの高さの石が、互い違いに道を塞いでいた。向こうに下り階段の上端が見え、少し動くとまた隠れた。
床の四角い継ぎ目に沿って、長い溝が走っていた。石一つがちょうど一マス。壁とのあいだには、人が回り込める空間がところどころ残っていた。誰かが、その空きへ石を押して進んだのだろう。
「壊せないから押したんだね」
T17が先頭の石に肩を当て、溝に沿って押した。石が動き、床をこする音が部屋を満たした。
T17は頭を振り、指を一本ずつ折りながら呟いた。
「キューブ、しょっぱい。あなたT956。あっちT999。青い。私は37」
五本全部折ると、にっと笑った。
「消えてない。押すだけなら消えない」
頭のどこかが少し整った。
「押したら、頭がすっきりしました」
T999が言った。T17も頷いた。T999が手首に書いた。押す:記憶は消えない。整う。
「じゃあ、全部押そう」
T17は嬉しそうだった。二つ目、三つ目を押し、四つ目で止まった。さっきの三つ目が四つ目を塞いでいた。壁の角に入り込み、それ以上押せない。
上の縁を引いたが、指が滑るだけだった。反対側へ回ろうとしても、壁との隙間に足すら入らない。蹴ってみた。足が痛かった。
「……石は引けないんだ」
「はい。今わかりました」
T999が書いた。石:引けない。T17、足が痛い。
「それ、なんで書くの」
「次に蹴らないように」
それからT17は、押す前に数えるようになった。唇が忙しく動いた。一度間違えた人の計算は細かい。
道を塞いでしまった三つ目の石を、槌で小さく壊した。
空の石で、欠片は入らなかった。それなのにT17は顔をしかめた。
「空でも壊せば記憶は消える。ここも同じ」
槌は正面の一マスだけを叩くものではない。その左右、計三マスに当たる。だからT17はいつも、隅のほうの亀裂を選んだ。隣まで壊せば、そのぶん記憶もなくなるから。
残りは全部、押した。
最後の石は階段の入口にはまっていた。亀裂が蜘蛛の巣のように内側へ集まっている。手前に白い粉。ここで矢印を描きかけ、やめた跡だった。
地表の人々は、ここで止まった。この石を越えられずに。
けれど石の下には、別の跡もあった。細かな破片が床に貼りつき、上へ行くほど隙間なく固まっていた。T17が槌の先で根元を擦った。表面の粉だけが落ち、中は硬かった。
「前に誰かが壊したんだ。また固まってる」
Dの言葉を思い出した。先に来た人が開けた道も、また塞がることがある。
T17が三度叩いた。三度とも弾かれた。T999が右手を出そうとすると、その手首をつかんだ。
「あなたは温存。全部忘れるんだから」
私は二歩下がって爆弾を置いた。
手を載せて待つあいだ、T17はじっとしていられなかった。降りてきた階段まで行って戻り、壁の矢印を数え、隣にしゃがみ込んだ。
「まだ?」
「はい」
「あとどれくらい?」
「わかりません」
「だいたいで。半分? その半分?」
「……話しかけられると、最初からになります」
T17は黙った。呼吸三つぶんほど耐えると、T999のところへ行き、小声で話し始めた。
手の下が重くなった。石の中の何かが、こちらに気づいた。
「来ます」
T17はT999を連れ、階段を駆け上がった。私は手を離した。
石が粉になった。描きかけの矢印が埋まった。
そして入ってきた。温かいもの。そこに染みた匂い。嗅いだことがないのに、鼻が先にもう一度吸い込む匂い。
「名前の欠片が刻まれました」
「名前を呼ぶまで、あと三十層」
「いい匂い。これ、何?」
T17が鼻をひくつかせた。T999は自分の手首を嗅いだ。そこからではなかった。
階段に座ってキューブを食べた。
口に入れる。崩れる。何かが舌に乗る。
初めての味だった。塩気のような、鉄のような。
手のひらの黒いくずを見た。キューブだ。毎日食べている。それはわかる。舌だけが知らなかった。
「どうしたの。まずい?」
「……何の味ですか、これ」
T17が噛むのをやめた。私を見て、キューブを見て、もう一度私を見た。
「今、キューブの味を忘れたの?」
「そうみたいです」
「最初の部屋で? 欠片一つで? キューブの味?」
「はい」
T17はこらえきれず笑いだした。階段に寝転がって笑った。声が層じゅうに響いた。
「おめでとう。一生キューブが新鮮。ほんと、羨ましい」
「……しょっぱいです」
「そう。しょっぱい。それがキューブの味。覚えて。しょっぱい」
自分のキューブを半分に割り、私の口に入れた。
「もう一回、初めて食べてみて」
しょっぱかった。今度は、そうと知って食べた。
T999が階段脇の壁を見ていた。白い手形だった。小さかった。私たちの手より。
青い左手を重ねると、指先が関節一つぶん余った。
「赤ちゃんの手です」
そのとき、上で音がした。
降りてきた階段のてっぺん、暗闇の中から。
低く、乾いた人の声。
「……三十」
T17が笑うのをやめた。起き上がり、槌を握った。
T999が光を掲げた。二十段ほど見えた。その先は闇。誰もいなかった。
「ねえ。今、どっちか数えた?」
私もT999も首を振った。
T17は長いこと上を見ていた。
「……私たち以外に、層を数えてる誰かがいる。逆から」
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