第10話窓
出発前に壁へ行った。最後だからじゃない。毎日行くから行った。そういうことにしておく。
T17。あった。よし。
空白。あった。
T956。
その下に、もう一つ。T999。
刻まれて間もない文字だった。ここの名前は全部Dが彫る。でも、あれはほかよりずいぶん深かった。
力を込めて刻んだように。なぜかは知らない。聞いても答えないだろう。
今日、瞬いた回数。八。まだ朝なのに八。
私はもう、これを数えられない。降りるから。
そう思ったら、妙に寂しかった。照明相手に寂しいなんて、ありなのか。あるらしい。
降下艇は、船尾の出港区画の発着台にあった。
任務区画から長く狭い連絡通路を抜けると、分厚い扉が開いた。砲撃場とは遠く離れていた。ここから出ていく人がいることは知っていた。でも、この扉を越えたのは初めてだった。
扉が閉じると、聞き慣れた砲撃場の機械音も届かなくなった。
搭乗橋を渡って降下艇へ入った。座席が三つ、その前に窓が一つあった。
窓があった。この宇宙船で、初めて見る窓だった。
「窓ですね」
T999が真っ先に言って、手首に書いた。窓:ある。
「それも書くの?」
「あるとは知らなかったので」
それはそう。
Dは搭乗橋の下に立っていた。上がってこない。手も振らない。ただ立っている。
扉が閉じる前に言った。
「帰ってきたら、褒めてくださいね」
Dは答えなかった。
答えないことも答えだと、青い子は言っていた。それでよしとしよう。
扉の上に明かりがついた。
「自動航行を開始。着陸地点、確認」
誰も何も触っていないのに、固定具が外れた。降下艇が出港口を抜けた。
音もなく。この宇宙船は何をしても音がない。いちばん早く慣れて、いちばん最後まで嫌いなところだ。
窓の外に、離れたばかりの宇宙船が見えた。私たちの記憶が始まった場所。
大きく、古く、黒かった。窓が一つもない。外から見てもない。
船体の灯りが一つ、じっ、と鳴るみたいに瞬いた。
「外でもちかちかしてる」
「何回目ですか」
「……九回」
「書きません」
「ありがと」
それから、星が見えた。
黒かった。格納庫の標的のように、光をまったく返さない球。
違うところが一つ。縁に細い青い輪があった。指一本ぶんくらい。
T999を見た。T999も窓を見ていた。
「星も百なんだ」
私が言った。
「星も漏れているんですね」
T999が言って、書いた。星:青い。私と同じ。
降下中も、T999は質問を続けた。
標的とは何ですか。足場はなぜぬるいんですか。回復室のキューブは本当に薄味ですか。いつから数えているんですか。
全部答えた。知らないことは知らないと言った。そうすると「では、不明と書きます」と返ってくる。
そこでわかった。これが私の役目なんだ。この子に答えること。37を三十回揃えるより、こっちのほうが向いている気がした。
T956は一言も話さなかった。爆弾を膝に載せ、窓ばかり見ていた。
体が重くなった。
体が座席へ深く押しつけられた。腕を上げると、下へ引かれる力を感じた。軽く握っていた槌の柄を、両手で持ち直した。
「重い」
「はい」
T956が答えた。でも、おかしな顔をしていた。一度爆弾を持ち上げ、また下ろした。
「同じです」
「何が」
「爆弾の重さは変わりません。ここでは、ほかのものも重くなるんですね」
私の槌を見てから、自分の爆弾を見た。口もとが少し上がった。
「それ、嬉しいの?」
「私だけ重いものを持っている気がしなくなったので」
T999が書いた。星に来ると槌も重い。爆弾は変わらない。
スピーカーが鳴った。雑音の合間に、
「ここは……。ここは……」
DがT956に聞かせたという言葉だった。声は違う。何人もいた。みんな同じところで止まる。
T999がスピーカーを見た。
「答えてあげなくていいんですか」
「何て」
「ここは星ですよ、と」
「……降りてからね」
降下艇は、音もなく着陸した。扉が開くと、スピーカーが告げた。
「着陸完了。地上待機。母船との通信を維持」
私たちが降りたあとも、扉は開いていた。
地面は灰色だった。空は黒く、その縁も青かった。内側から見ると、そう見えた。
低く四角い建物がいくつかあり、扉は全部開いていた。
十人ほどの人が立っていた。動かず、降下艇を見ていた。私たちを見ていた。
一人がゆっくり歩いてきた。歩き方を思い出したばかりの人のように。
口を開いた。
「ここは……」
止まった。もう一度。
「ここは……」
T999が前へ出た。青い光が灰色の地面に広がった。
「ここは星です。あなたはここに住んでいます」
その人はT999を長く見て、それから言った。
「……青い」
最後まで言い切れた言葉だった。
その人の言葉で、私たちが聞いたものの中で、初めて最後まで言い切れた言葉。
T999が書いた。星の人:青い、と言った。最後まで。
「それ、服の中に書くの?」
私が聞いた。
「いいえ。これは手に書きます。いいことなので」
入口は建物のあいだにあった。
地面に開いた穴。階段。任務区画から練習層へ降りる階段と、幅も傾斜も似ていた。Dがあの下に練習室を作った理由が、少しわかった気がした。
その前に立つと、背後の降下艇のスピーカーが言った。格納庫の天井と同じ声。
「復元層へ進入。名前を呼ぶまで、あと三十一層」
三十一。
ここには瞬く照明がない。数えるものがなくて、手が落ち着かない。だから層を数えることにした。残りはあの声が数える。私は降りたぶんを数える。地下一階から地下三十一階まで。
これは数えたくなかった。でも、数えるのは私だ。
「一。地下一階」
「書きますか」
「ううん。これは私の」
「わかりました」
「降りよう」
「はい」
「はい!」
青い子が最初に階段へ足を載せた。右手はポケットの中。石にしか使わない手だから。
T956が、爆弾を両手に抱えて続いた。
私は槌を肩に、最後に降りた。
最後尾が、数える人の場所。前に二人いるか、数えながら行かなくちゃ。
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